さらに、こういう記載もあります。
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二つの「竹田の子守唄」とメッセージ・ソング(4)
■「守り子唄」がムラを出た時
 「竹田の子守唄」は先ほども触れましたように、非常にヒットしながら、ヒットしたのちにラジオ、テレビでかからなくなったという、不思議な名曲です。
 赤い鳥が歌う「竹田の子守唄」をちょっと聴いてみましょう。

  守りもいやがる 盆から先にゃ
  雪もちらつくし 子も泣くし

  盆がきたとて なにうれしかろ
  帷子(かたびら)はなし 帯はなし

  この子よう泣く 守りをばいじる
  守りも一日 やせるやら

  はよもいきたや この在所(ざいしょ)こえて
  むこうに見えるは 親のうち

 京都に竹田という地区があります。その竹田の中に被差別部落があります。
 「竹田の子守唄」は、そこに生まれた子守唄です。
 正しくは「守り子唄」ですね。子守りをする子どもが赤ちゃんを抱きながら、あるいは背負いながらうたっていた歌。これが、いわゆる原曲です。
 竹田の守り子唄が、ムラを出ることになったのは、つぎのようなことがきっかけでした。 関西を中心に活躍されているクラシックの作曲家で尾上和彦(当時は、多泉和人)さんという方がいらっしゃいます。
 尾上さんは、その青年時代、うたごえ運動が盛んだった六〇年代に、竹田地区の隣保館へ合唱団を連れ出かけたのだそうです。そこで知り合ったのが地域の「はだしの子グループ」という一団で、尾上さんは彼らと一緒に地域の歌を作ろうということになりました。
 彼はこの交流の中から、竹田に伝わる古い歌をよく知っている女性と知り合いになります。彼女は「はだしの子グループ」のメンバーのお母さんでした。
 彼女はたくさんの歌を尾上さんに教えてくれたそうですが、その中の一つが、私が原曲と言った竹田の守り子唄だったのです。
 尾上さんはピンときて、これはすごい歌だとすぐにテープを家に持ち帰って、一晩で「編曲」した……この「編曲」という言葉の使い方が難しいんですけれども……そのお母さんがうたってくれたものを彼は楽譜に移し変えたわけです。
 当時の尾上さんは、「橋のない川」という東京芸術座の舞台の音楽を作ってほしいと依頼を受けていました。尾上さんは、竹田の歌を舞台に上げます。最初はメロディだけです。舞台のための音楽ですから。これが歌がムラを出る第一歩なのです。
 そしてその後、尾上さんは、お母さんが歌ってらした歌詞をそのままメロディに当てはめて、うたごえ運動のサークルにも歌ってもらいました。
 これを聞いたフォーク・シンガーの大塚孝彦さんが高田恭子さんと一緒にうたい出します。また、この二人の歌を聞いた「赤い鳥」の後藤悦治郎さんが、素晴らしい歌だからと自分たちのレパートリーにも加えました。
 赤い鳥の「竹田の子守唄」が入ったシングル盤は1969年に出て、ご存知のように大評判になったわけです。


■こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
 「竹田の子守唄」は、ヒットになるにつれて、歌のルーツがそれなりに知られるようにもなっていったようです。
 たとえば「竹田の子守唄」には「在所」という言葉がうたわれます。1973年に作家の橋本正樹さんがまとめた「竹田の子守唄」(自費出版)という本で初めて知りましたが、「在所」とは、京都地方では被差別部落を指す言葉だそうです。
 「竹田の子守唄」は、先ほどの「復興節」や「ヨイトマケの唄」と同じように、とてもいい歌なのに、歌の出身が京都の被差別部落の歌らしいぞというところから、テレビ・ラジオでは流さない方がいいみたいだと、そういうような風潮になっていったようです。人間をおとしめるような歌ならいざ知らず、「竹田の子守唄」は、差別を告発する歌でもあります。しかし赤い鳥のリーダーだった後藤さんに聞きますと、彼らが新人の人気グループだった時も「この歌は外してほしい」といった局側からの要請が、理由をはっきりと告げないかたちで何度かあったそうです。
 同時にこの歌は、赤い鳥の内部にも亀裂を生んでいきます。
 現在の後藤悦治郎さんは平山泰代さんと二人で「紙ふうせん」というグループで活動していらっしゃいますが、赤い鳥時代の後藤さんは、単に美しい歌というだけでなく、その背景をも含めて歌い込んでいきたいという考えの人でした。しかし、そこまで歌に入りこんでいいのか、そんなに考えないで歌と接したいというメンバーもいた。赤い鳥の解散の理由は、「竹田の子守唄」がすべてではないにしろ、若いメンバーたちに歌うこととは何であるかという大きな問題を突きつけたことは確かなようです。
 ではここで、もう一つの「竹田の子守唄」を聴いてもらいます。
 いわゆる原曲の一つです。これは竹田で活動をされている外川正明先生から頂戴した録音で、かつて尾上さんのために歌を披露した方の声とは違います。
 明治から大正、昭和の初めにかけて、守り子に出された(主に)少女は竹田に限らずたくさんいました。彼女たちは、それぞれが「?の子守り唄」の作者だったわけです。
 外川先生たちは、そんな生き証人のお一人の肉声を録音されたのです。
 原曲は、赤い鳥の「竹田の子守唄」とずいぶん違います。
 その辺をぜひ聴いていただきたいと思います。
 またこれは素人の歌です。素人のおばあちゃんが「ああ、歌詞を忘れた。どうしよう」みたいなことを言いながら、またうたい出す録音ですが、これがいいんですね。歌の上手ヘタではなく、この女性の心をぜひ汲み取っていただきたいと思うんです。
 特に、赤い鳥の歌には出てこない「どうしたいこーりゃ、きーこえたーか」という説得力あふれる文句です。彼女たちは赤ん坊を背負ってますから、この下りは赤子の顔でも見ながら「私のメッセージが聞こえたか」というようにも受け取れますし、あるいは「あて歌」というのか、守り子をさせる主(あるじ)に向かって「ツラ憎い、私をこんなふうにこの寒空で」と訴えているようにも聞こえます。

  こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
  泣かぬ子でさい(さえ) 守りゃいやにゃ
  どうしたいこーりゃ きーこえたーか

  この子よう泣く 守りをばいじる
  守りは一日 やせるやら
  どうしたいこーりゃ きーこえたーか

  来いや来いやと 小間物売りに
  来たら見もする 買いもする
  どうしたいこーりゃ きーこえたーか
  寺の坊んさん 根性が悪い
  守り子いなして 門しめる
  どうしたいこーりゃ きーこえたーか

  久世の大根飯 吉祥(きっちょ)の菜飯
  またも竹田のもん葉飯
  どうしたいこーりゃ きーこえたーか

  盆がきたぁかて 正月がきぃたて
  なんぎな親もちゃ うれしない
  どうしたいこーりゃ きーこえたーか


■「竹田の子守唄」のエネルギー
 これが竹田に伝わる元歌です。
 かつての「守り子唄」なり、その周辺の歌というのはずいぶんリアリティのある唄が多いんですね。そして、悲しいことも、楽しいことも、怒っていることも、即興的にどんどん歌の中へ盛り込んでいきました。現在のような、歌といえばCDとかテレビの音楽番組、あるいはカラオケのように、メディアが発信している情報を享受するのが大半という生活と、かつての生活の現場とは、同じ歌と言ってもまるで違うのです。
「寺の坊んさん、根性が悪い、守り子いなして、門しめる」という文句が出てきますが、これもリアリティのある内容です。
 奈良県高取中学の中尾民江先生の聞き取りによれば、この部分は、「子ども、背中で泣くやろ、泣いたらやっぱしぬくいとこへ連れていて、ほんでお寺のとこへ連れていて、手をこうやってゆすくって寝やそ思てお寺のかどへ遊びに行くね。そしたら、お寺のぼんさんが怒ってお寺の門閉めてしまうね。それを唄に作ったんや」
 ということだそうです(中尾先生が送ってくださったインタビューから、1980年代)。
 このお話をされたおばあさんは、いま歌を聞いていただいたおばあさんと、どうも同一の方のようです。
 机の上で想像で書いた歌ではなくて、本当に現実として自らが体験したものを少女が歌にしているわけですね。若くちっちゃい女の子がこれを作っているんです。これを作りうたったのが、明治、大正の若い小さな子どもたちだったということを、ぜひ思い浮かべてほしいのです。
 そういうふうにイメージを膨らませてみると、一般的には「竹田の子守唄」は寂しい歌のように思われているのでしょうが、ずいぶん違う景色が見えてきます。確かに、赤い鳥の「竹田の子守唄」にしても風景は寒々としてますね。でもそれを歌うという行為は、凍えてしまいたい、死にたいと訴えることと同じではありません。
 寒空に向かって声を出すことで、体にエネルギーを復活させる、あるいは「笑ってしまうぜ」みたいな皮肉めいた力、密かに「ばかやろう!」と叫ぶエネルギー、そういうようなものも裏に秘めているから歌となるんです。
 一般論ですが、「俺は自殺したい」といった歌がたまにパンク・ロックなんかではあるんですけれども、これを言葉どおりに捉えることはナンセンスなのです。歌の基本的なテーマというのは、「俺は生きたい」ということなんですね。
 こんな状況を打ち破って俺は生きたい、私は生を求めているという心の叫びが、歌の原点だと私は思います。
「竹田の子守唄」というのは、こういう視点からもう一度聞きなおして見る時、その美しさはさらに光り始めます。
 私は、この素晴らしき日本の歌を再発見する時がやってきていると思います。