奈良県の部落開放同盟幹部が不祥事を起こした。
関西ならではの風土から生まれた事件か・・・
以下、開放同盟の後援会の記事だ。
部落差別問題は、関西ではまだまだ根が深い。
これは、歴史の中心が関西(上方)が日本の歴史であることと無関係ではあるまい。

今回は、ご存知の方もおられるかもしれないが、知らない人へ向けたメッセージです。
過去、放送禁止になった楽曲は数々あれど。。
この、竹田の子守唄もなんともはやの経緯で禁止となったようだ。
丸山明弘歌う「ヨイトマケの唄」も差別として一時放送禁止だった。
日本のマスゴミは時として、世間体しか持ち合わせない無味なものとなる。
以下、1000文字というブログ記載制限ぎりぎりの記載です。
最後までぜひお読みください。
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京都会館で行なわれた「第23回部落解放連続講座」(主催・部落解放京都地方共闘会議)での公演を再構成したもの。
( 2001/03/28 )
講演「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」---藤田正@高野山
高野山で(Beats21)
 2003年8月の後半に、高野山で「第34回部落解放・人権大学講座」という、人権に関連する様々なテーマを扱う規模の大きな催し物が開催された。
 ここに記載するのは、8月21日に行なわれた藤田正(Beats21)の講座を整理したもの。当日は大きな体育館が満杯になるほどの盛況で、「竹田の子守唄」や放送禁止歌に関する関心の高さをうかがわせた(課題別講2 歴史・文化3「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」)。
 はじめに
「竹田の子守唄」もそうですが、歌というのは非常に多面体です。ただ耳にして、いい歌だな?と思う場合もあります。ビートルズのジョン・レノンの歌は、英語がわからなくても「すごいな」と思います。しかしその後、彼の伝記などを見ると、「ジョン・レノンの歌の多くは、彼の苦難の道から発酵したものなのだ」ということがわかってきます。「竹田の子守唄」もそういう歌です。
「竹田の子守唄」が持つそういった部分、名曲のうわべではなく、土台の部分、あるい背骨の部分のお話したいと思います。
赤い鳥「竹田の子守唄」が消えた経緯
まずフォーク・グループの赤い鳥に一九七〇年代に歌われた曲を聞いてください。
守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし  (一番)
盆がきたとて なにうれしかろ
帷子はなし 帯はなし     (二番)
この子よう泣く 守をばいじる
守も一日 やせるやら     (三番)
はよもゆきたや この在所こえて
むこうに見えるは 親のうち  (四番)
高野山で(Beats21)
「竹田の子守唄」は、今で言えば、小学校一年から六年ぐらいの主に女の子が、奉公に出され、奉公先の赤ちゃんをおぶって、お寺や神社の境内をあやして歩いた時代に生まれた歌です。それは明治、大正、そして昭和の初めあたりの頃だと言われています。
 一番の歌詞の意味は「守り子に来た私(女の子たち)も嫌になる旧盆から先は、雪もちらつくし、背中の赤ちゃんも泣くし」です。歌の舞台とされる京都の人に、この歌詞の意味を訊ねたことがあります。すると、「京都の冬は、他国の人には想像できないくら寒いから、こんな歌詞が出来たんでしょう」と説明を受けたこともありました。
 ただ、この歌詞をじっと見ているとですね、単なる寒さだけではなく、もっと深い心の傷を描いているようにも感じるんです。
 問題になる歌詞が四番です。ここにある「在所」とは一般的には「いなか」「郷里」などの意味ですが、京都では、時として被差別部落を指す言葉にもなります。この「在所」の意味が、のちのちヒット曲「竹田の子守唄」をメディアから追い出してしまう要因の一つとなりました。このことはあとで触れることにします。
 その先に、赤い鳥の「竹田の子守唄」がどのようにヒット曲になったかをお話ししなくてはなりません。              
 伝統的な歌が有名になるには必ずきっかけがあります。「竹田の子守唄」は、京都の竹田にある被差別部落で生まれ育てられたものだと言われています。鹿子絞りが有名だったあの地区で、女性たちがお母さんやおばあさんから受け継いだ題名もない歌をうたっていた……これが「竹田の子守唄」の原型です。           
 一九五〇年代から六〇年代かけて、政治運動や労働運動と一緒になった「うたごえ運動」が盛んになりました。その流れの中、竹田の被差別部落にも、青年たちの小さな合唱団ができました。
 そこへ、クラッシックの作曲家、尾上和彦(当時は多泉和人)さんが合唱の指揮にやってきます。そして尾上さんは竹田で、グループのある青年のお母さんとも出会いました。彼女は、地元の子守唄や昔の歌をたくさん知っていたからです。お母さんの歌を聴いた尾上さんは、びっくりしてしまいます。「これは大変な歌だ、素晴らしい」と。そして、家に帰って譜面に起こしたのが、私たちが知っているいわゆる「竹田の子守唄」の出発点だったのです。
 その時の、最初は歌詞もついていなかった楽譜が、歌詞が加えられしだいにうたごえ運動のサークルの中へ広がっていきました。六〇年代も半ばのことです。
 うたごえ運動を追いかけるようにしてフォーク・ブームがやってきます。
 そのフォークの人たちも「竹田の子守唄」を耳にします。当時、後藤悦治郎さんもまた、日本にこんなに美しい歌があったのかと驚いたアマチュアのフォーク・シンガーの一人でした。後藤さんは、のちに赤い鳥のリーダーとなる人物です。当時のフォークの人たちは、欧米の歌を英語でうたうことから出発しました。それが六十年代の中頃からでしょうか、「日本の歌を再発見し、作りだそう」という気運が生まれてきます。「竹田の子守唄」は彼らによって「発見」され、京都のフォーク・サークルでも有名な歌となっていったのです。
 たとえば、私がここに紹介する一つに……六〇年代の真ん中に出された自主製作盤のLPがあります。大塚孝彦さんがリーダーとなったグループで、高田恭子さんというのちにレコード大賞の新人賞を取った女性もうたっています。私が知る限り、これが「竹田の子守唄」の最初のレコーディングのはずです(LP『ザ・ファースト・アンド・ラスト』)。
 この歌の解説に、大塚さんは次のように書いておられます。
「竹田の子守唄のA面の最後は、もう一度日本民謡でひきしめます。高田恭子と大塚孝彦の最大のヒットとなった曲、実は同志社大学の合唱団『麦』を小生が聞きに行って、この曲に魅惑され楽符をもらったのが、そもそもの始まりで、その起源は余り定かではなく、京都の竹田のあたりだろうと言われています。日本人の間にはいまだに根強く部落民に対する差別意識が残っていますが、部落民であるために幼くして子守女にやられた哀しい少女の身の上をうたった歌です。五木の子守唄とまったく似た内容です」(「楽符」は原文どおり)
高野山で(Beats21)
大塚さんはこの歌を部落の歌だと知ってうたっていたんですね。
後藤さんは、大塚さんたちがうたう「竹田の子守唄」にショックを受けたそうです。そして後藤さんは、この歌によって英語ばかりだった自分のバンドを解散し、新たに「赤い鳥」を結成します。そして「竹田の子守唄」で、ヤマハのコンクールでグランプリを獲得し、プロ・デビューするわけです。
で、いい歌であればあるほど、人やメディアなどを通じてどんどん広がっていきますね。地球の反対側で生まれた哀しい歌が、海を渡れば楽しい歌だと思われている、なんてこともあります。この「竹田の子守唄」も、出身地がわからないけど、素晴らしい歌だよね、と広がっていきました。大手から発売したシングル盤「竹田の子守唄」は、七〇年代当時、百万枚ほども売ったと言われています。
当然、ファンからは「この竹田ってどこですか?」と聞かれます。しかし赤い鳥の後藤さんは、そのたびに口を濁していたそうです。京都、関西のフォーク仲間では大変に有名な歌であっても、彼は持ち歌の故郷を自分たちできちんと調べたことがなかったからです。
そこで彼は、故郷を捜し始めます。結果として、その故郷が京都だということがわかりました。それも、後藤さんと一緒に故郷探しをしてくれた友人が、京都のある女性から、歌の中の「在所」とは京都では被差別部落のことだと指摘されたのです。
冒頭でも言いましたように、この「在所」という言葉は、一般的な「田舎」という意味もあり、京都においても必ずしも被差別部落だけを指すものではありません。
しかし、その意味すら検証せず、歌が有名になるにつれて「部落をテーマにした歌のようだから、(放送などで紹介するのは)やめておこう」という形でウワサは広まっていったようです。仮に「在所」が被差別部落であったとしても、この素晴らしい歌を積極的に紹介し、部落の人たちの苦しみを訴えかけることこそが、メディアの人たちの役割なのではないかと思うのですが、事態は逆の方向へ進んでいったのです。
ちなみに、竹田の生まれで作家の土方鉄さんは、この歌が有名になった頃から「うちのムラの歌だ」と書いておられます。そしてその文章では、歌の中の「在所」を被差別部落だとはされてはいないのです。
 このようにきちんと書かれている文章があるにもかかわらず、広範囲に流布されていったのは、無責任な「あれは部落の歌だから…」というような、何か腫れ物にでも触るようなウワサなり口調だったようです。
『放送禁止歌』を書かれたテレビ・プロデューサーの森達也さんが大手のテレビ局で資料を調べていると、「竹田の子守唄」に関する「在所=未解放部落」と書かれてた文書を見つけたそうです。その文書には「同和がらみでOA不可」(OA不可=オン・エア不可、つまり放送できない)とも書いてあったそうです。何度も言いますが、「在所」は、京都地域においてもすなわち被差別部落ではないんです。それなのに、いつしかこうのように断定されてしまう。
 人権を尊重するのであれば、私たちメディアの人間は、差別に苦しんできた人たちの美しい結晶を進んでオンエアすべきはずなのに、なかなか腰が重い。加えて「在所」という一つの言葉すら、調べもしないで間違った判断を下してしまう。これは、二重の差別と言えるんじゃないですか? とても残念なことです。
(続く・・・)